これがらき☆すたのこなただとわかる人は同世代くらいかもですね
友人というのはお互いに価値観をぶつけ合って、自分一人では解消しきれないような悩みも話しているうちに氷解したり、別の悩みに変容したり、面白い存在ですよね
昨夜もありえない時間から解散前に駅で長時間立ち話をしてしまいました
以下は昨夜、KKと話していろいろ考えて書いた文章です
私の人生の目標は「幸せな人生」を送ることであり、そのために当面は世間一般で幸せな人生とされている、家庭を持って養って、一緒に生きていくことを目指している
さて、私自身が幸せな人生を送れたか否かを、振り返って判定するのは誰だろう?終わり際はさすがに私自身くらいのものだろうが、色々なタイミングで周囲からの評価も受けるのは想像に難くない。というかすでに「結婚しました」などというと「おめでとう!」「お幸せに!」と祝福される
周囲からも幸せを認めてもらえる
これは非常に大きい。人間は生き物の中で社会性が最も高い生き物なので、マジョリティの生き方というのはこの点に関して生きやすく、周囲からも人生を自然と肯定されるので、当然に自己判定する際にも肯定しやすい
家庭を持つという目標は自分が無人島で一人で生きていたら絶対に出てこない発想であり、社会から求められる、「社会の再生産をせよ」という無言の圧力を受けた結果の産物かもしれない
それでも私は結構日本が好きで、こんなに素敵な国が異文化を背景とする人たちにとって代わられるのは寂しい気持ちになるので、日本人を再生産するのはそういう意味でも私にとって利点がある
考えれば考えるほどに私はマジョリティの性質を持っていて、きっとマイノリティの立場に立てていない発言や思考も多いのだろうが、あえてこの結論に至るので書きたい
「誰かを愛せ」
いやキリストかって。でも、考えがあるんです。
余程の強者でない限り、「自分だけで自分の幸せを規定して、他者からの評価視線感情をすべて無視して幸せになる」なんて芸当は出来ない。いろんな芸術家はそうやって狂ってる。ゴッホも生前もっと評価されていればアルルに散ることもなかったでしょう。太宰ももっと早く評価されていればあんな最後にならなかったでしょう。太宰は結局無理だったかもな…。
人間である限り、社会から評価されずに幸せをつかむのは難しいことで、その社会というのはきっと大勢じゃなくてもよい。なんなら1人でも。
しかし親は無条件に(ここでも親に愛されたマジョリティが出ていますね)愛してくれるので、それだけでは満足できないんです
それなら、自分を理解してくれるパートナーを1人見つけることに、誰かを愛することに人生を賭けるのが割の良い勝負なんじゃないでしょうか
未だに幸不幸の軸でしか人生をとらえることができず、善や正義といったさらに上位にあたるような概念を自己の人生に組み込めていない非常に動物的な人生を送っている私ですが、まず自分の存在を幸福により肯定し、その先に他者との関係性の中にある善や正義も入ってくるのかなと今は感じています
普段の行いとしての道徳とかは人としてできるんですけど、政策とは関係ない、考え方としての善とはもう少し時間をかけて向き合ってみます
なんか書いてたら思ってたのと違う方向に筆が進みました。
人は誰でもわかってほしい。他人と比べずに見て欲しいんだ。みたいなことにふと気が付いて書き始めたのに…。またいずれそういう話はまとめます。